2003年11月12日(水)
ピタゴラス参観記「粘土なんだけど消しゴムなの」
                       
                                 佐藤久恵

  (2004年8月9日10:40頃から使用開始)

         2004年8月9日掲示開始(ver1)、8月20日更新(ver1.1)
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<ピタゴラスでの持込み授業>
 ブラジル人学校『ピタゴラス』での持込み授業は、平成15年11月12日に、群馬大学から学部生4名、大学院生1名が参加して行なわれました。
参加学部生の一人が「ねんど消しゴム」を教材として使うことを提案し、学部生(男子2名)が教授者となり、この授業を展開しました。
双方が説明時間を前後に分け、主となり副となりながら授業が進んだ訳です。
授業案はすでにHPに掲載されていますが、授業の要素を単純に示すと、
  @挨拶と自己紹介
  A粘土消しゴム作成の手順の説明
  B各子供達の作成へ個別に立会い、アドバイス
  C子供達の作品を集めて、煮る作業(作品数と鍋との関係で3回繰り返す)
以上の4つに大きく分けられます。

 子供達に対して行われた試みは、作業をしながら言語を習得するという、積極的で「動詞獲得型」の側面と、自由な作品を作り上げてそこに「ものの名前」を付加するという「内発的な活動」の側面とがありました。
 自分の手の中から新しいものを作り上げて「新しい言葉と出会うこと」さらに、「その言葉は他言語へとつながっている」ということを、子供たちにやさしく繋げていくような実践だったのではないかと考えます。

 院生のYさんは、のちに行なわれた他校での同教材の授業実践と比較して、特殊な「色使い」、「充分に使う粘土の使用量」、「国旗などの作成による国民意識の有り様」などを、ここピタゴラスでの生徒作品の特徴として上げていました。

 ただ、子供たちは、ある子が作った作品に魅力を感じると、それを真似して作り、連鎖的に、また他の子も真似して作るというような具合で、似たような作品が伝播して作られることもありました。
 その例を上げれば、この日の作品で「唐辛子」などの野菜類や「アイスクリーム」また、「国旗」などもそのような伝播傾向のあるものでした。

<よい授業とは?>
 この日、私は主にビデオ撮り担当として参加させて頂いたのですが、持ち込み授業に限らず、「よい授業とはどのようなものだろうか・・・・・・」ということを改めて考える機会となりました。

 例えば短大の授業で、ある先生の実践紹介ビデオを見せた上で、「よい授業とは」という説明を行なって、「こういう授業はなかなかできない」と付け加えると、短大の学生には「先生もできないのに私達にさせないで!」と、反発されたりします。
 しかし、同じ教材を使っても、クラスが異なれば全く異なった授業となってしまうことは容易に想像でき、珠玉のような授業は実際なかなかないものです。

 私は「よい授業」とは、その授業を通して
「全く新しい何かを知ること」
「今まで考えていたことが精緻化されてより深く考えられるようになること」
「今までとは全く異なった考えに至ること」
ということのいずれかが明確に含まれる時に「よい授業だった」と言えると考えています。

 プロの授業であろうと、初心者の授業であろうと、「実習」と銘打たれた授業であってもそれは同じことだと思います。
 「生徒」を前にした時には、その時において、その日に目的とした「知」に到達しなければならないと思うのです。
 さらには、そこに至る「葛藤」が準備されていたとしたら、それはかなりいい授業だと思います。
 これは、一斉指導の技術の問題、子供を「集中させること」につながることだと考えます。

<静的な葛藤>
  この日、子供たちにとって「全く新しいこと」の一つは「ねんど消しゴム」という教材との出会いであったと思います。
 これは、授業の後半で、「この消しゴムは、どこで購入できるのですか?」と担任の先生を通してなされていましたから確かだと思います。

 しかし、「知」に至る何らかの「葛藤」という点は、今回の授業ではやや希薄だったのではないでしょうか。
 教授者が全員の注意を自分や発言者に向かせ、且つ、興味の集中や学びの深まりを得るには、何らかの「葛藤」があってのことだと思います。

 私は、信州大学附属中学校の副校長である牛山栄世先生の授業ビデオ(1)を見たことがありますが、「満水競争」と銘打って行なわれたその授業には、空気の抵抗で入っていかない水を、なんとかして、一升瓶に満たしたいと考える子供達の、なんとも言えない集中ぶりと葛藤とがありました。

 この授業は、まず、
  @一升瓶にそのまま水を入れる場合と
  A一升瓶の口にゴム栓付のロートをつけて、空気の流れを遮断して水を入れる場合の
2種類の実験を設定します。
 そしてクラスを6グループに分け、激しく競わせます。
 そこで、教授者はどうしても水が入っていかないAの実験の不思議さの中に子供たちを落とし入れ、「なぜなのか」を強く問わせます。
 この授業の激しさは、ビデオを見ていただくとわかりますが、教授者が巧妙に準備をし、子供たちの活動が教授者の術中にはまるところを見せつけてくれるものです。

  私は、今回の授業でもこういう要素が必要だと考えたのです。
 ただ、牛山先生の授業を「動的葛藤」とすると、今回の授業の中には「作品作り」「製作」という表面上は静かに見えるけれど秘められた「静的な葛藤」とも言いたいような、製作の喜びと、ゆっくりと言葉に到達してゆくという、「人間が言葉にたどり過程」があると言えるかも知れません。

 私は、「粘土なんだけど消しゴムなの・・・」と教授者の一人が述べた言葉が、何かのヒントになるような気がしています。

 クラスの子供達は、日常言語に理解の差があるようで、教授者の言葉に対して、担任の先生の通訳を必要とする場面が多々ありました。
 また、教室の座席もそのように配置されていたのではないかと思います。

<物作りの要素>
 この実践の特徴はもう一つあると思います。
 実践全体が言葉の習得に終始するのではなく、「物作り」の要素が多分に含まれているため、
「こねる(amassar)」
「つくる(criar)」
「ゆでる(cozer)」
という単語によって、授業全体の流れを示したあとは、子供達それぞれの製作場面に、参加学生が密接に関わっていました。
 創作活動を通して、教授者との一対一の対話があることは、子供の製作意欲の継続に確実に反映していたと思います。

<ピタゴラスという場>
 最後に、ピタゴラスという教育現場の存在に感謝しなければならないと思うのですが、それは、大学生に実習の機会を与えてくださっているということがまず一つです。
 それから、ここに立つ教授者が必ず実感するのではないかと思うのですが、通常の小学校の現場に立った時の「わかる」と、外国人児童生徒のクラスで感じる「わかる」とは少し違いがあるということです。
 つまり、言葉が苦もなく通じて、何かを理解し、その理解や処理能力が高いことを「よくわかること」とどこかで感じていた教授者がいたとしたら、もう一つの「わかる」というずれた次元のあることを容易に気づかせてしまう現場がここです。
 色々な「わかりかた」があるのだということを改めて感じることにもなります。
 「わかる」ということを精緻化していく過程の中に授業者自身を沈み込ませてしまう場があること、しかも二つの「わかる」が、言葉の問題を通して、交差してここに存在していることを知る機会を与えてくれています。

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(1)この牛山栄世氏の授業ビデオは、群馬大学の「視聴覚教育と教育工学」の授業でも取り上げられています。
 1980年代後半に行なわれた牛山栄世先生の授業記録ですが、ある小学校へ授業を持ち込む形で行なわれていました。
 この授業は、随所に教師の工夫が見られ、圧巻です。
クラス全員をいくつかのグループに分け、一升瓶に水を入れ、満杯にすることを競うのですが、そこに数々の工夫がされています。
 まず、一回目はロートを瓶の口に乗せ掛けただけで、水をどんどん入れさせます。
 これは水がどんどん入っていきます。二回目はロートと瓶の間にゴム栓を使って空気の流れを遮らせます。
 子供達は、各グループで競争していますから、なんとか、今回も満杯にしようと、大はしゃぎです。
 しかし、どこのグループも満水にすることができません。
 授業の後半は、それはどうしてなのか、を問うことになります。
 子供達は、牛山先生に導かれて、空気の存在、空気の抵抗に気づいていきます。