火山(1998)印刷中原稿の原形

史料に書かれた浅間山の噴火と災害

早川由紀夫・中島秀子

 abstract

 1.はじめに

 浅間山は日本の代表的活火山のひとつであり,その噴火を書いた文字史料が多数知られている.とくに,1400人余の死者を出した1783年の噴火災害の記録は大量にあり,地元では「天明三年の浅間押し」伝承がいまも語り継がれている.

 浅間山の噴火記録は,これまで小鹿島(1893)・大森(1918)・武者(1941)・村山(1989)らによって研究された.しかしこれらの研究はどれも,史料の記述を批判的に読むというスタンスから遠い.史料の記述を鵜呑みにしてそれを事実として扱っているものもある.史料を書いたのは生身の人間だから,書かれていることすべてが事実であるという保証はない.筆者の過誤もあるだろうし,意図的な情報操作もあろう.また,転記の際のミスもあるかもしれない.

 私たちは,文字史料に書かれた浅間山の噴火と災害の歴史を正しく理解するために,史料原文にあたり,噴火と記録の同時代性・史料が執筆された場所などに留意して,それらを批判的に読んだ.そのとき,史料記述の真偽を確かめる手段のひとつとして噴火堆積物を用いた.地震史料の場合も野外の断層変位や液状化跡によって史料記述の信憑性を確かめることができるが,噴火堆積物からは,噴火のダイナミクス・規模・強度・年代・推移など格段に豊富な情報が解読できる(早川,1990).史料を批判的に読むときの試金石として噴火堆積物はたいへん有効である.

 ただし,明治以降の噴火災害はどれも強い爆発によるものだが,規模が小さいために個々の爆発による堆積物を特定することができない.これらについては,気象庁(1991)のまとめを当時の新聞記事によって確認するという作業を行った.

 史料中の年月日を和暦から西暦へ換算する際には,早川・小山(1997)の勧告に沿って,1582年以前はユリウス暦へ,それ以降は現行のグレゴリオ暦へ換算した(Table 1).

2.江戸時代以前の噴火

 685年(天武天皇十四年)『日本書紀』に,「十四年春・・・三月・・・是月灰零於信濃国草木皆枯焉」とある.この降灰記事は,小鹿島(1893)によって「天武天皇十三年三月,信濃浅間山噴火,雨灰草木皆枯(日本書紀)」と紹介された.つまり,彼は原文には書かれていない「浅間山」という三文字をそこに挿入したのである.信濃国(いまの長野県)にこの降灰をもたらした火山が浅間山である可能性はもちろん否定できない.しかし,草木を枯らすほどの顕著な降灰はおそらく高い噴煙柱が立ったことを意味するだろうから,浅間山から噴火したのならその灰は早春のつよい西風に吹かれて信濃国ではなく上野国(いまの群馬県)により多く降ったはずである.主に信濃国に降灰がみられたのであれば,その給源火山はより西方に求めるほうが自然ではなかろうか.たとえば新潟焼山・焼岳・乗鞍岳・御岳からの降灰であった可能性も検討されるべきである.

 大森(1918)もこの降灰記事を浅間山噴火の項の冒頭におき,「天武天皇十三年三月(685年4月)是月灰零於信濃国,草木枯焉(日本書紀)」と,注釈なしで,書いている.以後この見解は定着したらしく,浅間山の最古の噴火を685年とみなした文献は多数ある.

 なお,小鹿島(1893)と大森(1918)が天武天皇十三年と書いているのは,彼らが壬申の乱のときの弘文天皇即位を認めて,『日本書紀』に書かれた年数から一減じて年紀を表記する方法をとったからである.現在の日本史学界では,日本書紀の記載の通り天武天皇十四年と表記するのがふつうである.西暦では685年に相当する.

ウェブ注:弘文天皇の即位を認める/認めないを逆に書いて印刷してしまいましたが、正しくは上記のとおりです。なお論旨と結論に変わりはありません。

 887年(仁和三年)仁和三年(887年)に浅間山が噴火したという主張が,かつてあったらしい.村山(1989)が指摘したとおり,その根拠としてあげられた仁和三年の記述(『越後年代記』など)は新潟焼山の噴火を書いたものと解釈するのが妥当である.新潟焼山の噴火堆積物の分布と特徴およびその放射性炭素年代も,この解釈を裏付けている(早津,1994).

 1108年(嘉承三年/天仁元年)浅間山のBスコリアの噴火は,『古史伝』などの記述を根拠として,1281年に起こったと考えられたことがあった(荒牧,1968).しかし新井(1979)は,『中右記』の記述と噴火堆積物の放射性炭素年代を理由に,この噴火の年代は1108年であると考えた.

 Bスコリアは,浅間山の東50kmの前橋市で15cmの厚さをもつ.火山近傍では,その中間に追分火砕流堆積物を挟んでいる.追分火砕流は山頂火口から南北両方向に流下し,御代田町追分・小諸市石峠・嬬恋村大笹・長野原町北軽井沢に達した.多数の死者があっただろうが,火砕流による被害状況は記録に書かれていない.この噴火のマグニチュード(早川,1993)は5.1で,過去1万年間に浅間山で起こった噴火の中で最大である.

 『中右記』の天仁元年の条に,以下のようにある.

 天仁元年八月二十五日(1108.10.3)「寅卯時許,東方天色甚赤」

 同年九月三日(1108.10.11)「天晴,早旦東方天甚赤,此七八日許如此,誠為奇,可尋知【興欠】

 同年九月五日(1108.10.13)「上野國司進解状云,国中有高山,稱麻間峯,而從治暦間(1065-1069)峯中細煙出來.其後微々成,從今年七月二十一日(1108.8.29)猛火燒山峯,其煙屬天沙礫滿國,【火畏】燼積庭,國内田畠依之已以滅亡,一國之災未有如此事,依希有之怪所記置也.」

 同年九月二十三日(1108.10.31)「今日午時許有軒廊御卜,上卿源大納言,俊,上野國言上麻間山峯事」

 『中右記』は権中納言藤原宗忠の日記である.京都で書かれた.嘉承三年八月三日(1108年9月11日)に改元して天仁元年になったのだから,この噴火の報告が京都に上がったのは天仁元年九月五日だが,この噴火が始まった七月二十一日はまだ嘉承年間である.

 上野の国で発生したこの事件が京都に伝わるのに一か月半もかかったという事実は,当時の交通事情を考慮しても遅すぎるように思われる.上野の国がいちじるしく混乱して京都への報告が遅れたのだろうか.

 この噴火史料は,次のように解釈される.1108年8月29日,Bスコリア下部の噴火があって,前橋にあった国庁の庭に火山灰が厚く降り積もった.これによって上野の国の田畑の多くが使用不能になった.これ以前の浅間山は,治暦年間(1065-1069)に噴煙を細く上げていたが,その後,かすかになっていた.

 1か月あまりの休止を挟んで,10月3日から11日まで京都で東方の空が甚だしく赤かった.これがBスコリア上部の噴火に対応するのではなかろうか.Bスコリア上部の分布軸は北東に伸びていて,東南東に伸びるBスコリア下部と明らかに方向が違う(中村・荒牧,1966;宮原,1991).もし両噴火の間に約1か月の時間が経過したのなら,この風向きの違いを説明することが可能である.上野の国の田畑の多くは浅間山の南東方向にあったから,初めの噴火で使用不能になったこととも矛盾しない.なお,『神皇正統録』には「天仁元年戊子八月十七日(1108.9.25),虚空ニ聲有テ鼓ノ如シ.数日断マス」とあるからBスコリア上部の噴火は9月下旬から始まったと考えたほうがよい(Table 2).

 追分火砕流からのサーマル火山灰はBスコリア下部を整合に覆っていて,Bスコリア上部に浸食不整合で覆われている.追分火砕流は初めの噴火の最後の段階で流出したのだろう.つまりこの噴火のクライマックスに当たる追分火砕流は1108年8月末もしくは9月初めに流出したと考えられる.

 10月31日に行われた軒廊御卜 (こんろうみうら)は,宮中の渡り廊下で行われた占いのことである.彗星の出現や自然災害が国家に吉であるか凶であるかを判定して,もし凶とでた場合には改元などでそれを予防した.浅間山のこの噴火の場合は,改元には至らなかったが軒廊御卜の対象となった.辺境で起こった噴火であるにもかかわらず当時の中央政府にこのように注目された事実は,その規模がかなり大きかったことを示していると考えてよい.

 このあとまもなく東国には再開発ブームが起こり,12世紀中葉に荘園造立ラッシュが訪れた.浅間山の1108年噴火が,北関東地域が古代から中世へ転換するきっかけになったと峰岸(1992)は指摘している.

 他の古記録では,『立川寺年代記』に「天仁元,此年信州浅間峰震動」とあり,『興福寺年代記』に「天仁元年,天ニ聲アテ鼓ノ如ク鳴ルコト数日不断」とある.

 Stuiver and Pearson (1993)よると,1108年に対応する放射性炭素年代は950yBPである.Bスコリアから980±100YBP(GaK505; 荒牧・中村,1969)と1010±90yBP(GaK506; 荒牧・中村,1969),追分火砕流堆積物から870±80YBP(TK21; Sato et al., 1968)が報告されている.

 この地域で通常7月下旬に行われる「土用干し」のあとの状態の水田を,群馬町同道遺跡でBスコリアが覆っていることは,それが1108年8月下旬に降灰したと考えることと矛盾しない(能登,1988).一方『古史伝』に書かれた1281年6月26日は,覆われた水田の状態が示す降灰の季節と矛盾する.

 1281年(弘文四年)弘安四年六月九日(1281年6月26日)に浅間が噴火したという記事は,天明三年(1783年)の噴火記録を書いた『浅間大変記』とその類書の冒頭に書かれている.すなわち,それは噴火から500年も後になって書かれたものである.平田篤胤(1776-1843)の『古史伝』に書かれている記事もたいへんよく似ているから,これも『浅間大変記』を元に書かれたにちがいない.

 「浅間山ハ此度初て焼出し候にてもなし.昔弘安四年六月九日の暮方,山より西に黄色之光り移り,同夜四ツ時焼出し,信州追分,小諸より南へ四り余の間灰砂降り,西に海野え続き田中之辺迄今に田地火石おし出し置,北に山麓迄おし出し,其所を石とまりと言習いせり.人生百歳をたもつ者なけれは知らす.」(浅間焼出山津波大変記)

 「追分・小諸より南四里余りの間砂灰ふり,大石今にあり,北は山の麓まで押出して,今に此所を石どまりと云う」(古史伝)

 これら史料がいうところの場所のいずれにも,そのような噴火堆積物をいま見つけることができない.「石とまり」という地名も特定することができない.この噴火史料はまったく信頼がおけないものか,あるいは事実に基づいているとしても,M2以下の小さな噴火を記録したものであろう. 

 1532年(享禄四年)井出道貞(1756-1839)による『天明信上変異記』に以下の記述がある.

 「享禄四年辛卯十一月二十二日大雪にて,降り積る事六尺又は七尺の所もあり,二十三日二十四日晴天に而,二十五日より二十七日迄時々降りける,然るに二十七日浅間山大に焼出し,大石小石麓二里程の内雨の降る如く,中にも大原といふ所へ七間餘の岩石ふりける,是を七尋石と名づけて,今に有.灰砂の降る事三十里に及べりとぞ,無間谷といへるは浅間を引まはし,巌石峨々として恐しき大谷なり,前掛山といふは,焼山を隠して佐久郡に向,鬼の牙山黒生山の間谷に右の大雪降り積もりし処に,焼石のほのほにて一時に消えたり,又二十七日七ツ時より大雨となり,二十九日まで昼夜の別ちなく降りければ,山々の焼石谷々より押し出し,麓の村々多く跡方なく流れしとそ,其後街道不通路になりしを,其時の領主近郷へ申付,小ともかたよせ,四年が間にて街道普請成就せり,今に至り山の半腹街道筋皆焼石のみなり,是降りたるにはあらず,其時押し出せし石なり.」

 『天明信上変異記』も天明三年(1783年)の噴火のあとに書かれた記録である.享禄四年十一月大雪のあと,二十七日(1532.1.4)に浅間山が噴火して泥流が発生し,多数の村が流された.街道を修復するのに四年かかったという.八木(1936)は蛇堀川の中流に「七尋石」を図示している.しかしこの記録がどこまで事実を忠実に書き残しているかは,同時代に書かれた原史料がみつからないかぎり判断できない.16世紀は,日本各地で洪水の被害記録が多い時代である.

 1596年(文禄五年/慶長元年)同じく『天明信上変異記』に次の記述がある.

 「慶長元年四月四日(1596.5.1)より八日迄山鳴大焼,八日午刻大石降,七月八日大焼,石近邊へ降,人死」

 この年は,『武江年表』に「六月十二日,京都・畿内・関東諸国大ニ土降ル,マタ毛ヲ降ラス」とあるのをはじめとして,『続史愚抄』『アジアの記録』などに降灰降毛の記事が多数認められる(武者,1941;村山,1989など).現存するこれら記録のほとんどは18世紀以降に書かれたものであり,同時代に書かれた記録を私たちはまだ見つけることができていない.しかしこれだけ多くの,しかも具体的な記述が残っていることは,すべてが事実無根ではなく,何らかの事実に依拠して書かれたのではないかと想像させる.季節は夏であるから,風向きを考えると,浅間山の噴火で京都に降灰降毛があったと考えておかしくない.ただし『天明信上変異記』の「七月八日大焼,石近邊へ降,人死」という記述は,1783年噴火のクライマックスとまったく同じ月日なので,創作である疑いが残る.

 浅間山東麓で,Bスコリア(1108年)とA軽石(1783年)の間にみつかるA' 軽石がこのときの噴火堆積物かもしれない(早川,1995).

 1598年(慶長三年)『当代記』に,「慶長三年....四月八日(1598.5.13),浅間山之参詣衆八百人程焼死云々,昨日大小之違にて,今日は不縁日之由,山嶺にて呼ると云へ共,只人間之所謂なりと心得不用之参詣処如此」とある.

 『当代記』は,著者や成立年代がよくわからない記録である.800人ほど焼死したと書いているが,「云々」と締めくくっていることから,出所不明の伝聞情報をもとに書かれた信頼するに足らない記事である疑いがつよい.

 たしかに四月八日は浅間山の山開きの日であるから(田村・早川,1995),その日に大勢の人が登山したかもしれない.しかし800人という数は,登山中に火口周辺で爆発に遭遇して亡くなる人の数として現実的でない.

 1721年(享保六年)『浅間山大焼無二物語』に以下の記述がある.

 「享保六年五月二十八日(1721.6.22)昼大焼け.此の年閏は七月に有る.当日関東の者拾六人嶺上ぼる皆打殺し死す.右之内漸々壱人命助り然レ共是迄来ル分も不知と云へり」

 これと似た記事が『月堂見聞集』にあるが,その噴火日は六月二十八日になっている.どちらも18世紀に書かれた史料だから記録の同時代性は心配しなくてよい.1721年6月22日の爆発で,登山中の16人のうち15人が絶命したのは事実と認めてよいだろう.

 1783年(天明三年)天明三年の浅間山噴火を書いた古記録は大量にある.噴火マグニチュードMは4.8であり,1108年のM5.1に次ぐ規模である.

 最近,荒牧(1993a)と田村・早川(1995)はそれらを火山学的視点から再検討し,1783年噴火の経時変化を整理した.両者の意見は本質的なところでかなり異なる.後者によると,この噴火による死者は,8月4日に軽井沢宿にいて降ってきた軽石にあたった2人と,翌5日に北麓で発生した鎌原岩なだれとそれから転化して吾妻川を下った熱泥流に巻き込まれた1400人余である.

 3.明治以降の噴火災害

 明治以降の浅間山噴火記録は多数ある.村山(1989)は,それらを発生順に整理している.以下では,死者が出た噴火(爆発)だけを取り上げる.1800年代に浅間山での死者は知られていない.

 1900年(明治三十三年)スミソニアン博物館が出している世界の噴火リスト"Volcanoes of the World" (Simkin and Siebert,1994) の171ページに,次のようにある.

 "1900 0715 >25? A boulder swept through village killing 25 persons. Women and children became exhausted along road and burned to death."

 1900年7月15日前後の新聞を調べたが,浅間山で25人もの人が亡くなった惨事を書いた記事をみつけることができなかった.おそらく,同年7月17日,安達太良山で72人が死亡した噴火と取り違えたのであろう.

 1911年(明治四十四年)1911年5月9・11日の上毛新聞および10日の朝日新聞によると,5月8日15時30分に浅間山が爆発し榛名山方向に灰が降った.5月8日は山開きだったため午前中は多くの登山者がいたが,ほとんど爆発の前に下山した.山頂ちかくにいた22歳の男性が,「着物焼けて丸裸になって手足髪の毛焼けて」死んでいるのが発見された.負傷者も数名あった.また,ひとりの女性が行方不明になったという.

 大森(1918)は,この爆発による死者を1名としている.この行方不明の女性は,その後,無事であることが確認されたのだろう.

 同年8月16・17日の毎日新聞および17日の上毛新聞によると,浅間山は8月15日4時30分に爆発した.爆発はそれほど強くなかったが,お盆の15日だったため,山頂ちかくに80人余の登山者がいて,2名が死亡,36名が負傷した.山上には,さらに十数名の死傷者がいたという.

 8月18日の毎日新聞は,さらに数体の遺体を発見したと伝えているが,「今回の噴火による死者かどうかは確定できない」と書いている.投身自殺者との区別がむずかしいことを言っているのだと思われる.8月15日の爆発による死者が何人だったかを私たちは確認することができなかった.

 1913年(大正二年)1913年6月2日の上毛新聞によると,「...佐十郎(二二)と...三一郎(二六)の両名五月二十九日浅間山に登山せんと...大爆発あり雨霰と砂礫の飛び散る中を逃げ出さんとし佐十郎は溶岩の為めに大火傷を負ひ命からがら下山したるも三一郎は行方不明となりたり急報により多数登山して捜索中の処一昨日に至り土砂中に埋没せる三一郎の屍体を発見して引取りたりといふ時恰も登山の好季節に入り日々登山する者も少なからざる由なるが注意せざれば不測の難を被るべし」

 5月29日の爆発で登山者が一人死亡・一人負傷した.大森(1918)によると,この爆発は10時44分12秒に起こり,愛知県まで爆発音が聞こえ,長野原と越後中部の数カ所で降灰がみられた.

 1930年(昭和五年)1930年8月21日の上毛新聞によると,「浅間山は二十日午前八時五分大音響と共に爆発した.当日登山者は数十名あり内男子四名,女子二名計六名は無理に頂上に登ったため〓ヶ峰の上に三名,噴火口より三百間離れた剣ヶ峰の下に三名何れも溶岩に打たれて無惨な死を遂げているのが発見された.」

 亡くなった六人が「無理に頂上に登った」と書いた新聞記者は何を言おうとしたのだろうか.

 1931年(昭和六年)1931年8月21日の上毛新聞によると,「十九日の早朝の爆発以来全山黒煙に包まれて不安な鳴動を続けていた浅間山は廿日午前三時二十分大爆発をなし更に十数回に亘る連続的の小爆発続いて午前九時四十五分物凄い唸りを生じたと思ふ瞬間又々大音響と共に黒煙猛然と噴き出して大爆発し噴煙は大小岩石と共に冲天して山麓一帯に落下した軽井沢沓掛付近は相当の被害を見たらしく本県も松井田長野原方面の西上州一円は時計の振子の止まるほどの震動を見,数分間に亘って降灰があった」

 「近年稀に見る被害を被った軽井沢署では登山者の有無を捜索中であるから東京...店員...三名は同日午前一時頃峰の茶屋より登山した為め爆発当時は八合目か頂上に達する時間にあり余程の地物を利用して避難せぬ以上惨死したものと見られて居る.」

 二年続けて8月20日に死者が出たらしい.3人が死亡したという.

 1936年(昭和十一年)気象庁(1991)は,7月29日に登山者一人が死亡したと書いているが,私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった.

 1936年10月18日の毎日新聞によると,「浅間山は十七日午前九時三十四分大爆発したが折柄頂上にあった中央大学専門部経済科...の三名は〓〓降る溶岩の中を命からがら血の池方面へ逃げ下ったが,大窪澤地籍で三名中羽生君の右足に溶岩落下して打倒れ,...午後八時頃出血が甚だしく遂に絶命」

 10月17日9時34分の爆発によって登山者一人が亡くなったことが確かである.

 1938年(昭和十三年)気象庁(1991)は,「7月16日登山者遭難若干名」と書いているが,私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった.

 1941年(昭和十六年)気象庁(1991)は,「7月9日死者1名,負傷者1名」と書いているが,私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった.戦争に突き進んでいた当時の社会状況下では,浅間山の爆発による遭難は新聞に書かれにくかったのかもしれない.

 1947年(昭和二十二年)気象庁(1991)は,「8月14日12時17分の噴火では噴石,降灰,山火事,噴煙高度12,000m,登山者11名死亡」と書いている.

 8月16日の毎日新聞に,「黒こげ四死体 浅間山の遭難」の見出しで記事がある.総計で11名が死亡したのだろう.

 1950年(昭和二十五年)気象庁(1991)は,「9月23日04時37分の噴火で登山者1名死亡,6名負傷,山麓でガラス破損,爆発音の外聴域出現」と書いている.

 これを裏付ける記事が9月24日の毎日新聞にある:「登山者四十三名中賽の河原で長野工高二年生新井幸雄君(一七)が火山弾で死んだほか重傷一,軽傷男四,女三を出し他は命カラガラ下山した.」

 この爆発によって、大きな岩塊が投げ出されて釜山火口縁に上にちょうどのった。これを千トン岩という。千トン岩は釜山火口の真北に着地しているので、よいランドマークとなっている。気象庁軽井沢測候所が作成した1950年9月23日噴火による放出岩塊分布図

 1958年(昭和三十三年)11月10日22時50分の爆発で、火口から3.8キロの血ノ池付近に直径90センチの火山弾が落下したと、軽井沢測候所が1971年に作成した「火山噴火にともなう噴出物の飛距離について(浅間山の噴火と4Km制限に関連して)」に書いてある。

 1961年(昭和三十六年)気象庁(1991)は,「8月18日に23か月ぶりに噴火,かなりの範囲に噴石,降灰,行方不明1名」と書いている.

 8月19日の毎日新聞によると,爆発が起きたのは18日午後2時41分らしい.同日の朝日新聞夕刊によると,「十九日の朝なお行方のわからないのは神奈川県平塚市...山家謙一さん(四一)...だけで,同日小諸,軽井沢両署員が捜査に向かった」とある.

 このあと浅間山は静かになり,1973年2月1日に爆発するまで11年3ヶ月間静穏だった.そのあとしばらく,ごく小さな火砕流を発生させるなどして5月24日まで断続的に爆発を繰り返したが(荒牧,1973),再び静かになり,1982年4月26日東京降灰(荒牧・早川,1982),1983年4月8日前橋降灰,1990年7月20日東麓に微量降灰だけを経験して現在に至っている.

 4.文字史料に書かれた浅間山噴火史のまとめ

 685年の噴火記録も887年の噴火記録も,浅間山のものであることが否定されるから,もっとも古い浅間山の噴火記録は,『中右記』に書かれた1108年8月29日前橋降灰の記述となる.1108年噴火(M5.1)は過去1万年間における浅間山最大の噴火だったことが堆積物の調査からわかっている.『中右記』の記述には,それを裏付けるように,この噴火が国家的大事として扱われたことが書かれている.

 1783年噴火の規模(M4.8)がこれに次ぐ.これら二つの大噴火の間,浅間山がどのような状態だったかを文字史料から知ることはむずかしい.北東山麓の1108年スコリアと1783年軽石の間には薄い軽石層(A')が一枚挟まれている.この軽石の分布の全貌はまだわかっていないが,M3級であると思われる.この軽石の噴火年代は,京都に降灰降毛があった1596年夏だった可能性がつよい.

 1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない.『天明信上変異記』に書かれている1532年の大洪水の記録も事実である保証はない.1721年に登山中の15名が爆発にあって死亡したという『浅間山大焼無二物語』の記録は事実だとみなしてよいだろう.

 1783年以降は,1803,1815,1869,1875,1879,1889,1894,1899,1900年に山頂で爆発があったが(村山,1989),死者は報告されていない.

 観測記録がよく残っている明治元年(1868年)以降をみると,1890年代から徐々に爆発回数が増え,1941年に年間爆発回数398回のピークを記録した(気象庁,1991).その後,数年おきに年間200回以上の爆発を記録したが,1958年(263回)を最後に衰えた.88回の爆発を数えた1973年だけを例外として,浅間山は現在まで,明治初年当時と同じくらい静穏な状態を長く続けている.

 明治元年以降の爆発回数は約3000回である(気象庁,1991).一回の爆発はM1級であるから,これを全部合わせるとM4相当になる.これは1783年噴火の噴出量の数割に相当する.

 5.浅間山噴火災害の形態

 史料に記述はないが,追分火砕流堆積物の分布(荒牧,1993b)をみると,1108年噴火によって多数の住民が死亡しただろうことはほぼ確実である.追分火砕流堆積物の上ではいま,長野県側で5000人,群馬県側で3000人が生活している.

1532年に蛇堀川を熱泥流が下って多数の村が流されたと書いた18世紀の史料があるが,同時代史料がみつかっていないため真偽のほどはわからない.ただ,蛇堀川(と,その上流の湯の平)はそのような災害が発生してもおかしくない地形をしている.

 1783年噴火の死者1400人余のうち,軽井沢で軽石にあたって死んだ2人以外は,岩なだれと熱泥流による北側(群馬県側)での被害である.山頂火口はいまも北側が低いから,火砕流・岩なだれ・泥流などの流れによる災害の脅威は群馬県側に大きい.

 上に述べた災害以外はどれも,突然のブルカノ式爆発に遭遇した登山者が噴石にあたって命を落とした事例である.1596年に数人が死んだというのは事実だと思っていいだろうが,1598年に800人が死んだというのは,すでに述べたように,創作である可能性が高い.1721年には,15人とやや大きい数の死者が出た.19世紀には死者がなく,20世紀になって12回の爆発で約30人が命を落としている.事故は登山者が多い夏期に集中している.ただし雨天が続きやすい6月の犠牲者はゼロである(Table 3).

 6.浅間山防災対策の現状

 軽井沢町追分にある気象庁軽井沢測候所と峰ノ茶屋にある東京大学浅間火山観測所が,浅間山の火山活動を常時監視している.また地元自治体が,山頂火口縁の東西二ヶ所にテレビカメラを設置している.この映像は長野原町立火山博物館で観光客にも公開されている.こうした監視で異常が認められたときは,軽井沢測候所が臨時火山情報を出して住民と観光客に注意を促すことになっている.

 過去の噴火事例をもとに将来の噴火災害を予測したハザードマップが関係六市町村によって1995年につくられた.住民啓発用のマップは山麓の一般家庭に配布されたという.この試みは評価できるが,マップを配布しただけで住民を啓発できたと行政がもし考えているとしたら,それは誤りである.火山の知識の普及活動を継続的に行って住民の火山意識を常に高めておく努力を怠ると,いざというときにせっかくつくったマップが有効に使われるかどうか疑わしい.またハザードマップは,研究の進展によって次々に書き替えられるべき性質のものである.いったんつくってしまったら簡単には変更できないという硬直した態度をこの場合はとるべきでない.

 災害対策基本法63条の規定によって地元市町村長は,浅間山頂火口から4km以内を警戒区域に指定して立ち入りを禁止している.ただし最近の活動静穏化を受けて,1995年7月より,小浅間山・石尊山・湯の平までの登山道に限り入山できるよう規制が緩和された.登山を通して浅間山に親しむことは,結果として住民と観光客の防災意識を高めることにつながる.静かないまのうちに,多くの人が浅間山に登って山のことをよく知ってほしい.

 謝 辞 天武年間の年紀表記について森田 悌さんに教えを受けました.

 引用文献