噴火お見舞い申し上げます。私も8月23、24日にはひとりで三宅島を訪れまし
た。
雲仙普賢岳は平成2年に噴火し、翌年6月3日に4〜500度の大火砕流が時速10
0キロで駆け下り、43名の命がうしなわれてしまいました。平成5年ごろには、火
砕流・土石流がひどく出て、島原市の北側の家屋、田畑も被害を受けたのです。平成
7年5月の火山噴火予知連で噴火が停止状態と発表され、翌8年には島原市長が噴火
終息宣言を行い、現在様々な復興事業を続けています。
今年は、噴火10年ということで、記念イベントやシンポジウム、火山フォーラムな
ども行っています。
雲仙普賢岳では11000人が避難して、平成3年6月から平成7年9月までの4年
あまりの間、仮設住宅がありました。被災地である島原の主な産業は農業で、その農
家の方が被災者の住民組織「雲仙普賢岳に立ち向かう被災農業者の会」を立ち上げ、
勉強を重ね、国・県・市に対していろいろな要望書を作って、さまざまな事業や、か
つてない施策も実現させて行きました。また、いろいろな団体(農業者の会も含め
て)が協力して、商工会議所等の音頭により「島原生き残りと復興対策協議会」を作
りました。
大惨事から半年後の平成4年1月には、550万人の署名をたずさえて市長を先頭に
して国会への陳情活動も行い、さまざまな要望を実現していきました。
住民団体の動きとしては復興計画への参加が上げられます。平成4年1月に市役所に
災害復興課を新設して、住民とともに復興計画を作り始めました。国や県に要望をす
る際には、住民の意向を踏まえた島原としてのビジョンを示すことで、提案をしやす
くしていったのです。
島原では町内会ごとに避難所に入りまして、その後、仮設住宅に入るときにも町内会
ごとに入り、長い人では数年間も暮らしました。
また、要望を個人で出すようなことはせず、町内会や団体ごとにまとめて、文書で市
や県に提言していったのです。火砕流の被害を受けた水無川と導流堤(砂防施設)に
挟まれた安中三角地帯では、平均6メートルのかさ上げをした上で宅地造成して40
7区画の宅地ができたのですが、これも住民の発案でした。
行政の動きとしては、県による災害対策基金が設立されました。これは利子を
事業費に充てるもので、当初300億円、その後1070億円に増額されていま
す。その運用益年約30億円と、島原市独自の取り崩し方式の災害対策基金約
48億円で、現行の法制度ではできない復興事業や救援策を行ってきています。
このような方式は、「雲仙方式」として、のちに他の災害でも生かされたと聞い
ています。
農地も平成11年には340haの圃場整備がされましたが、あまりの長期にわたる
災害だったので、復帰した農家は6割程度でしかなく、4割は転職しました。その
後、阪神大震災などもあったので、平成10年には被災者再建支援法ができまして、
有珠山にも適用され、今度は三宅島にも適用されると聞いています。
そういった法整備の改正も必要です。雲仙普賢岳では、行政と連携した住民組織や被
災者団体の力が大きかったのですが、ばらばらに避難している三宅島とは状況が違い
ます。マスコミが雲仙の悲惨な状況を全国に報道してくださったので、国の支援にも
少なからず影響を与えました。雲仙では報道の人も犠牲になっており、毎年、6月3
日ごろには「雲仙集会」という報道と住民の集いを行っています。来年には10回目
となり、その集会における救済問題等の全国発信とその継続も被災者救済の力となっ
たとわたしは確信しています。
雲仙普賢岳の噴火も終わりました。三宅島の噴火も必ず終わります。